飲んだくれの記

方向音痴で熱しやすく冷めやすい、酒とラーメンの大好きなポンコツが綴る徒然の記。

余は如何にして基督信徒となりし乎 読了

余は如何にして基督信徒となりし乎 (岩波文庫 青 119-2)

余は如何にして基督信徒となりし乎 (岩波文庫 青 119-2)

若き日の内村鑑三(1861-1930)の、キリスト教との出会いから、その信仰を深めていくまでの遍歴を書いた自伝。原書は英語で書かれており、これはその翻訳。はじめアメリカで出版したが売れず、しかしその後ドイツで見出されてその翻訳が大変な売れ行きを示す。その後フィンランド語やフランス語などにも翻訳され、ヨーロッパで広く読まれたという。「基督教国」たるアメリカで感じた失望・幻滅を描き、それに対する批判や提言を直裁に述べるこの書にしてこの結果は、さもありなん。


北海道の学校での彼の改宗に始まり、学生仲間との集会、卒業後の教会独立運動、アメリカ留学とそこで感じた幻滅、神学校への入学とそこでの失望、退学しての帰国・・・というのが、本書に書かれた流れ。


学生時代からアメリカにわたるまでの描写は、若い人ならではの理想とみずみずしい情熱に溢れており、青春の書としておおいに共感できるものだ。しかしそのアツさのあまりに周りが見えなくなっているのではないかとの危惧も抱かせる。案の定、著者もまた、宗教的法悦(みたいなもの)の体験をもって信仰と錯覚している人が多すぎることに大いに悩んでいた様子だ。
そんな思いで読み進めて、俄然面白くなるのが、彼が信仰上の悩みの果てに決断する、アメリカ行き以後の描写だ。基督教国であるはずのアメリカで彼が感じた幻滅と失望。差別と低いモラル、拝金主義。しかしそんな中でも彼が直接世話になった人たちの示す底知れない無私の愛と、それへの感謝。そこで見聞きした印象は、現代においてもほとんどそのままに適用されうるものと思われた。僕はそこにさらに深い共感を抱いたのだった。


また、この書に現れる限りで、著者の思想的な清廉潔白ぶりには驚かされる。とにかく彼は、クソ真面目だ。そして、自分に厳しい。現代日本から失われていると思われるこの漢っぷりは、なんだかとてもまぶしかった。(正直、今こんな人が周りにいたら「ウザい」と思われるのがオチだろう)


もっとも、無信仰な僕にとって最後までわからなかったのは、やはりその信仰へのあまりにも真摯な思いの源泉はどこにあるのかということだった。いや、これを言ってしまうと宗教の否定になってしまいかねないので、ちょっと言い方を変えよう。たとえば一宗教学者風情が書いたものがドグマに適合するかしないかの判断は、いかになされるのか。僕が原理主義的、もしくはあまりにも科学的論理的思考に染まりすぎているためかもしれないけれども、なぜ、原典以外の、神性なき存在(あえて預言者まではこれに含めるとしても)の言辞を「正しい」と信じ込めるのか。「正しくない」との分岐基準はどこにあるのか。それが科学的論理的思考の延長に無いことはたしかだ。では、どこにその立脚点が?あまりにも幼稚な疑問かもしれないが、どうにも分からない。