飲んだくれの記

方向音痴で熱しやすく冷めやすい、酒とラーメンの大好きなポンコツが綴る徒然の記。

魔の山 読了

魔の山 (上巻) (新潮文庫)

魔の山 (上巻) (新潮文庫)

魔の山 下 (新潮文庫 マ 1-3)

魔の山 下 (新潮文庫 マ 1-3)


トーマス・マンによる「20世紀の超大作」。二年も前に買ったのを、通勤途中などに少しずつ読み進めて、かれこれ一月にもなろうか。このたび、一気に読んでようやくケリをつけることができた。

第一次世界大戦に先立つこと数年。ドイツの青年ハンス・カストルプは、結核で入院している従兄弟のヨーアヒムを見舞いに、3週間の予定で高地にある国際療養所「ベルクホーフ」を訪ねる。彼はそこで出会う個性的で奇妙な人々との交流に幻惑されつつ、濃密な時間を過ごす。ところが3週間たったとき、カストルプは、自分自身もまた、療養の必要な身であることがわかる。そして始まる、療養生活。「山」を下りられなくなったために、低地との接触がどんどん希薄になるカストルプ。閉鎖的な空間で、限られた人々との交流の中、昨日と今日と変わらない毎日。低地では考えられないような、ヒマと観念をもてあそぶ生活。しかし無限に続くかのような、そんな繰り返しの毎日の中でも、彼は周囲から様々な感化を受け、(奇妙な)恋をし、別れを経験することで、一個の人格としての成長を遂げていくのだ・・・

読後感は、かすかな未来と希望を感じさせつつも、寂しい。様々な経験を通じて成長したはずのハンス・カストルプが、停滞と孤独の中に落ち込んでいき、しかし自力では「魔の山」を脱することができず、ようやく世界的な大変動の勃発をもって、背中を押されるようにしてそれを遂げることができたという、現代の学生の隠喩っぽい描写のためであろうか。


テーマからするとクソ真面目な小説の趣だが、いや、その表面にだまされてはいけない。これは相当のユーモアを低音部で奏でつづけている物語なのだ。それはこの物語の語り手の軽やかでちょっと茶化すような気味のある口調からしても明らかと思うが、その他にもたとえば、過剰なまでのセテムブリーニとナフタの論戦(まったく観念的な議論のための議論であり、しかも二人はカストルプへの教育のためにあえてそれをやっているのだ)の芝居かかった様子や、一歩間違えるとギャグになりかねないようなカストルプの愛の告白などにもそれは現れているように思う。


また、これも再三「語り手」が意識させる点でもあるが、物語を流れる時間の濃淡の描き方が絶妙だ。最初の3週間の濃密な描きように比して、続く数ヶ月でこれがだんだん疎になっていき、さらにその後のもはや霧のかかったような先後のつながりを失ったような数年が続くのだが、その語られようと、カストルプの主観的な時間間隔(それが徐々に狂っていく様子)とのシンクロぶりが実に見事。またそれぞれに配置されるエピソードの適所ぶりも、際立っている。


カストルプの教育者をもって任ずる人文主義者セテムブリーニと、その論敵であり先鋭的なイエズス会士であるナフタ。実直で謹厳だが善良なヨーアヒム。主人公の愛を受け流すショーシャ夫人。王者たる風格を備えつつ、静かに舞台を退場していったペーペルコルン。いずれも忘れがたいキャラクター多し。
わが主人公たるカストルプも、やたらに素直で、教えがいがあるためか、年長にかわいがられる性格。ちょっと張り切りすぎてしかられることもしばしばであるが、読んでいるこちらが応援したくなる(というか、ツッコみたくなる)ナイスなキャラクターの持ち主であった。


思うに、もっと若い頃に読んでいたら、この小説の滋味(地味な滋味・・・スンマセン)を感じられずに途中で投げ出していたことは間違いない。読んだのが今で、よかった。でも、お腹いっぱい。しばらく教養小説は、いいです。